出会いの速報

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「これっぽっちでも臆病なところを見せたら、現場じゃどえらくキツいことになった」とアーケアローは書いている。 結果としてジョッキーは、たとえ仲間うちであっても、危険や苦痛や恐怖のことは決して口にしなくなり、会話の時も、陽気な碗曲話法で自分たちの苛酷な現実を包みこんだ。
忌むべき落馬はスピル″吹きこぼれ″と呼ばれ、地面に投げ出されたジョッキーは、″席を外した″と表現された。 騎手たちの自伝を読むと、すばらしいレースについては微細にふり返っているのに対し、落馬や負傷については通り一遍の言葉でさっと触れているだけだ。
激しい苦痛あるいは衰弱に囚われても、騎手たちは、自分は不死身だという幻想にしがみついた。 ある者にとって、恐怖はそうした幻想を打ち破るものだった。
「その話はしなかった」とF・Jはふり返っている。 彼は″ワイルドホース″の異名をとるほどダフなジョッキーだった。
「もちろん考えはしたが。 ほかの連中のことはわからない。
だがおれは考えた。 怖かった」もっとも剛胆な騎手のひとりだったAですら、最初の落馬から、恐怖は実体を伴っていた。

ひとたび頭のなかに招き入れてしまうと、恐怖心はトラックで身体を支配し、完全に麻癖させてしまう。 この上なく狭い穴に馬を突入させることのできるジョッキーなのだ。
恐怖に囚われたジョッキーはIのいう″既婚者のルート″をとり、こわごわと馬群の外を回ることになる。 危険と怪我は、騎手の家族にも影響をおよぼした。
夢で、Tの妻Hは何度となく自分の夫が死ぬ場面を目撃した。 あいまいなイメージのなかで、彼の馬がぐるぐる回りながら地面にたたきつけられ、そしてその下にはTがいる。
と、Hは目を覚まし、恐怖に打ち震えながら、われに返るのだ。 Hは毎日、Tの騎乗を見にいった。
これは珍しいケースだった。 大多数の騎手の妻は、とても夫のレースを見る気になれず、競馬場にはほとんど、あるいはまったく足を運ばなかったからだ。
Hが夫の騎乗を見逃したのは、一回だけだった。 その日、Tの騎乗したブリックトップという馬がスターティングゲートで暴れ、鋼鉄製の梁がTの頭を刺した。
スカルキャップが割れ、彼は地面に倒れこんだ。 だが係員が病院に運ぼうとすると、頑強に抵抗した。
「女房を待ってるんだ」と彼は、Hがスタンドにいることを確信してくり返した。 しかしHは現れず、Tは回復したものの、彼女はそのことをいつまでも悔やみつづけた。
それからは一度も、Hはレースを欠席せず、夫が騎乗した馬のあらゆる動きをじっとその目で追いつづけた。 夫が引退するまで、彼女の心は一瞬たりとも安まることがなかった。

結婚して間もないころ、Hはひとつの儀式を始めた。 彼の馬がパドックを離れ、前足のひづめをトラッ踏みつけられ、別の馬に頭蓋骨を蹴られた彼は、脳震渥を起こし、あばらを2本折ると同時に、肺に穴をあけられた記憶ははっきりと脳裏に刻承こまれ、引退するまで、ずっと自分をさいなみつづけたと認めている。
彼によると、それは「どうしてもかき消すことのできない、恐るべき経験」だった。 クに乗せる瞬間に、「安全にゴールさせてくれますように」と祈るのだ。
ニューヨークのエンパイアシティ競馬場での雨に濡れたある7月の午後、Hの祈りはTに届かなかった。 先頭に100メートル離されて走っていた時、彼の騎乗する牝馬が突然自分の脚につまずき、頭から地面につっこんでしまったのである。
Hは、夫が弓形に反った牝馬の背中を泥に向かってすべり落ち、転んだ馬の下、そして後ろからその馬にぶつかった3頭の馬の下に、姿を消すのを見た。 倒れこむ馬たちのひづめがTの頭を蹴った。
Hは自分でもどうしたのかわからないまま、スタンドからトラックに降り立った。 頭のなかで何度も、Tはあの馬たちの下敷きになっている、とくり返す。
次の瞬間、彼女は夫を見下ろしていた。 その死を、彼女は確信した。

Tは担架で救急室に運びこまれた。 彼の昔からの付添人J・MがTの上にかがみこみ、スポンジでそっと泥と血をぬぐった。
涙がJの頬を伝う。 Hは離れたところから、夫をじっと見つめていた。
夫はぴくりとも動かなかった。 Hは激しい震えに襲われ、歯がカタカタと鳴りはじめた。
止めようとしても止まらない。 「ショックにやられてるんだ」という声が聞こえ、誰かがブランデーをHの手に滑りこませた。
彼女は断った。 それをもってきた男はむっとした顔になり、自分でブランデーを飲んだ。
彼らはTを救急車に乗せ、セントルイズ病院に移送した。 取り残されたHは、自力で病院の場所を探さなければならなかった。
彼女はTの車を運転し、馴染承のない道にとまどいながら、ニューヨークの街を走った。 燃料計は″空″をさしている。
彼女はガソリンスタンドに車をつけた。 車にホースをつなげた店員が、彼女に話しかけてきた。
「まったくひどい話じゃありませんか。 Tが死んだそうですよ」Hはパニックに襲われ、頭がくらくらしてきた。

どうしたらいいのか、どこに行けばいいのかわからない。 一瞬、競馬場に戻るべきかもしれない、とも考えた。
だが思い直し、そのまま病院を探しつづけた。 彼女はなんとか病院にたどりつき、駆けこんだ。
Tはまだ生きていた。 Hは昏倒しそうになった。
Tは生きのびた。 何日かは、ついさっきのことがまったく思い出せず、半年間は距離感覚も失った。
彼はかなりのあいだ、歩くと酔っぱらいのようによろめいていた。 だが彼はその後20年間騎乗をつづけ、復帰後は一度しかひづめにかけられて傷を負うことはなかった。
Hはひとりで、夫婦の部屋に戻った。 それはニューヨーク市郊外にあるヨンカーズのレンタルハウスで、ほとんどの騎手の妻と同様、彼女が数十年にわたって暮らす、無数の、無個性な貸し部屋だった。
ペットや観葉植物を手に入れたり、壁に絵をかけたりする暇もなく、またすぐ出ていかなければならない。 隣人たちは、彼らが″競馬場人種″であることを知ると、あざけりの目を向けた。
Hは一度、貸し部屋の自分のベッドの下に、泥棒が隠れているのを見つけたことがある。 だが隣人たちは彼女の悲鳴に反応しなかった。

彼らは叫び声をあげるのが、競馬場人種の通常のしゃべり方だと思いこんでいたのだ。 ひとりに戻る夜はいつも、現実的なやりくりに悩まされた。
ジョッキーの給料では、この職種に課せられる法外に高い保険料をまかなうことができず、ましてや病院の入院費など、到底支払えるはずもなかった。 競馬場の経営者たちは、負傷したジョッキーのために基金を集める行為を無条件で組合活動と見なし、そうした動きを見せたジョッキーには、容赦なく出入りを禁止した。
IとJが身を投じたのは、男を徹底的に消耗させる世界だった。 だが、いかにみじめな暮らしだろうと、騎手の技には、まぎれもなく人を惹きつけるものがあった。
人間は自由を希求しつつも、数々のハンデを課せられ、その活動と経験は、さして強靭でも活発でもない肉体に、大きく制約されている。 しかしサラブレッドはその恵まれた体躯によって、騎手を彼自身の肉体から解放するのだ。
馬とジョッキーがともにトラックを飛翻する時、男の精神が馬の肉体と融合し、そのふたつの総計を上回るなにかが生承出される瞬間がある。

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